神武天皇の描かれる姿と伝承神武天皇(Art Mochida Daisuke)神武天皇とは?初代天皇。『記紀』に記される建国の神さまです。「神武東征」では多くの苦難を乗り越え那賀須泥毘古との決戦で勝利し大和の地を平定。名称は神日本磐余彦天皇カンヤマトイワレビコノスメラミコト(紀)とされ、一般的に呼ばれる「神武」は漢風諡号かんふうしごうで、名の意味はこの国を治めた最初の王であることを示す。神武天皇の名称・神格・ご利益・関連神名称古事記神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト) 日本書紀神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレビコノスメラミコト)彦火火出見(ヒコホホデミ)狭野尊(サノノミコト)神日本磐余彦火火出見尊(カンヤマトイワレビコホホデミノミコト)磐余彦火々出見尊(イワレビコホホデミノミコト)磐余彦尊(イワレビコノミコト)磐余彦帝(イワレビコノミカド)始馭天下之天皇(ハツクニシススメラミコト)別称神武天皇初代天皇神格建国の神ご利益国家安泰経済繁栄金運長期計画技術開発関連神父神彦波瀲武鸕鶿草葺不合命母神玉依姫兄神五瀬命稲飯命三毛入野命「金運」を強力に引き上げる護符大和に王権を築いた初代天皇神武天皇は『記紀』の中で初代天皇と記されます。天津神の裔である彦波激武鷓鸚草葺不合尊ウガヤフキアエズと、海神の娘である玉依姫タマヨリヒメとの間に生まれました。「生まれながらにして明達、御心確如たり」と記され、15歳で皇太子になったと伝わります。一般的に呼ばれる「神武」は漢風諡号かんふうしごうで、名の意味はこの国を治めた最初の王であることを示します。別名に若御毛沼命、豊御毛沼命あるいは狭野尊などがあり、諱いみなは彦火火出見ですが、これは、祖父の火遠理命の異称と共通し、天孫・邇邇芸命ニニギノミコトの嫡流であることを表します。神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこのみことは神武天皇の和名。神名の「神」は美称、「倭」は古代王権が築かれ大和地方のことで、「伊波礼(磐余)」は現在の橿原市あたりを指しています。つまり、「大和の磐余という場所に宮殿を構えて治世を行った貴い男子」という意味の神名です。神武天皇の英雄譚『神武東征』出典:神武天皇(日本の神々辞典)神日本磐余彦天皇(神武天皇)は兄たちと高千穂の宮に住み日向国を治めていました。45歳の時、兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命や諸臣を集め、塩土老翁から聞いた東方の美しい地(大和国、奈良盆地)を紹介し東征を提案。葦原中国の統治をめざして東上します。矢傷と嵐によって兄たちを失う河内の国(大阪)からの上陸を試みますが、そこにはこの一帯を治めていた那賀須泥毘古ナガスネヒコが軍を率いて待ち構えていました。開戦するも利がなく敗北。さらに長兄の五瀬命がナガスネヒコの矢により深手を負います。五瀬命は「私たちは日の御子なのに太陽(東)に向かって進軍したのが良くなかった。回り込んで太陽を背負って戦おう」と提案。紀伊半島を迂回して新宮から上陸を試みます。船が熊野にさしかかる頃、深手を負った五瀬命はここで命を落とします。さらに海は大嵐となり海は荒れ狂った。進軍が阻まれることに憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が「我ら母は海神である」と言い入水。すると波も静かになり嵐は去りますが、神武は3人の兄を失います。神剣とヤタガラス上陸後、神武天皇の一行は、熊野(和歌山)の地にたどり着くと土地の神が現れ、神武たちの前に現れたかと思うとすぐに消えてしまいました。その途端、神武天皇と兵たちは見えない力に打たれて気を失い、その場に倒れてしまいます。出典:霊剣献上之図(彌彦神社)神武が目覚めたのは、高倉下たかくらじという男が剣を持って現れた時でした。高倉下は不思議な夢の話をします。それによると、自分の夢に天照大神と高御産巣日かみむすびが現れ、かつて葦原中国の平定の経験ある武甕槌命たけみかづちに降臨し手助けせよ命じていた。これに武甕槌命は「自分の剣をさずければ事は成る」と言い、布都御魂剣ふつのみたまのつるぎを地上の高倉下の倉の屋根に穴を開けて降ろそうと話していた。翌朝、目が覚めると夢のとおりに倉の中に剣があったので、こうして献上したのだという。神武天皇は剣を一振りすると、熊野の悪神たちはたちまち鎮まり、兵たちも元気を取り戻しました。難を逃れた神武天皇の一行は進軍を再開しますが、山道は険しく進軍は苦難を極めました。これに高御産巣日は、八咫烏ヤタガラスを遣わします。一行は八咫烏に導かれ無事進むことが出来ました。出典:神武天皇東征之図(Wikipedia神武天皇)兄宇迦斯(えうかし)の策略大和(奈良)の宇陀の地まで来ると、そこには兄宇迦斯えうかしと弟宇迦斯おとうかしという兄弟が住んでいました。八咫烏は兄弟のもとへ行き、「今、天神の御子がこの地においでになっている。お仕えする気はないか。」と尋ねます。それを聞いた兄宇迦斯は矢を放って八咫烏を追い返し、戦いの準備を始めます。しかし、相手が天神とあってか兵が集まりません。そこで兄宇迦斯は「お仕えします」と嘘をついて、罠を仕掛けた御殿に神武天皇を誘い殺そうと企てます。兄の計画を知った弟宇迦斯は、神武のもとへ参り、深くお辞儀をし「兄が御子を騙し討ちにしようとしています。」と伝えます。それを聞いた神武の供の道臣命みちのおみのみことと大久米命おおくめのみことは、兄宇迦斯を大刀と弓矢でおどし「お仕えすると言うのなら、その証拠に自分が最初に御殿の中へ入ってみろ」と御殿に追い込みます。兄宇迦斯は自分で作った罠にかかり、押し潰されて死んでしまいます。その後、弟宇迦斯は神武にお仕えする印として、一行に肉やお酒を振る舞いました。一見、兄を裏切ったかのように見える弟ですが、一族を絶やさぬようにと相対する行動をとったとも考えられます。那賀須泥毘古との決戦神武一行は戦いを重ね、兄の五瀬命の命を奪った那賀須泥毘古との決戦です。那賀須泥毘古の軍は強く、連戦するも勝てない中、勢いに押されて神武たちはだんだんその力を弱めていきました。そこへ金色の霊鵄があらわれ、神武の弓の先にとまります。鵄とびの輝きは光輝く太陽のようであり、あまりのまぶしさに那賀須泥毘古の軍は目がくらみ混乱。神武はこれ逃さずに攻め立て勝利します。出典:神武天皇『大日本名将鑑』より大和の地で初代天皇にとなる南九州の高千穂から長い時間をかけて東へと遠征。高天原から降された神剣や遣わされた八咫烏の助けを得て、大和に盤踞する各土地の有力な豪族(国津神)を平定しながら進軍しますが、攻略に費やした期間も長期にわたります。畝傍山うねびやまの東南の橿原の宮で即位。都を開かれ、日本の国を治める初代天皇となりました。神武天皇の皇后と御子日向国では吾田邑の吾平津媛あらつひめを妃とし、息子に手研耳命たぎしみみのみことと、岐須美美命きすみみのみことがいます。手研耳命は神武東征に加わっていた『日本書紀』に記される。大和を平定後、媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみこと(古事記では富登多々良伊須須岐比売ほとたたらいすすきひめ)と結婚。彦八井耳命ひこやいみみのみこと神八井耳命かんやいみみのみことと神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことの3人の皇子をもうけました。※「たたら」という呼び方が共通しており、玉櫛媛を母とすることからも同一の女性の異称と考えられる。吾平津媛アイラツヒメ(妃)手研耳命タギシミミ岐須美美命キスミミ媛蹈鞴五十鈴媛命イスズヒメ(皇后)彦八井耳命ヒコヤイ神八井耳命カンヤイ神渟名川耳尊カンヌナカワ手研耳命の反逆神武天皇の崩御後、手研耳命は皇位継承するため皇后(義理の母)と結婚し、皇太子である二人の弟(神八井耳命・神渟名川耳尊)の殺害を謀ります。手研耳命の企てを知った皇后は、息子たちに危険を知らせるために歌を歌います。「狭井河から雲が立ち登って、畝傍山では大風が吹く前触れとして、木の葉がざわめいている」歌の意味を理解した兄弟はすぐに行動を起こします。神渟名川耳尊カムヌナカワは、兄の神八井耳命カンヤイに弓を渡して手研耳命タギシミミを殺すように言います。しかし、神八井耳命は手足が震え殺すことができなかったので、神渟名川耳尊が兄の持っている弓を取りとどめを刺します。神八井耳命はこの失態を恥じ、弟に皇位を譲り、自らは神官となって仕えたとされます。神渟名川耳尊カムヌナカワは第2代綏靖天皇となります。神武天皇のお墓「神武天皇陵」は諸説ある出典:神武天皇陵(かしはら探訪ナビ)神武天皇のお墓とされる神武天皇陵じんむてんのうりょう。『古事記』では「畆火山の北の方の白檮の尾の上にあり」と、『日本書紀』では「畝傍山の東北の陵にほうむった」と記されます。また『日本書紀』の天武天皇元年(672)7月の条には、神武天皇の陵をまつり拝ませて、馬および兵器をたてまつったとあります。このように672年頃には神武天皇陵とされる場所がハッキリ存在していたことがわかりますが、その後、国が乱れ次第に天皇陵の位置が不明となります。正確な場所については諸説ありますが、公式には奈良県橿原市大久保町にある「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」とされています。神武天皇陵が現在の地に定められるまでは、候補地は多数存在しました。大和の国高市郡白橿村山本のミサンザイ(現在の神武天皇陵の場所。奈良県橿原市大久保町ミサンザイ)大和の国高市の畝傍山の丸山(郡洞村付近)大和の国高市郡四条村の福塚(今は第2代の綏靖天皇の陵とされている。現在の橿原市四条町)この3つの候補地のうち丸山が特に有力視されていました。理由は以下の通りです。『古事記』に「畝傍山の北の方の、白檮しらかしの尾(根)の上にある」と記されている。丸山は「尾根」の上にあり、他の候補地は「尾根」の上にはない。『日本書紀』の「天武天皇記」の戦勝祈願の中に「生霊の神」がでてくる。丸山には生玉神社がある。丸山のすぐそばにあった洞村の人たちは、祖先が九州から来た人たちであり、神武天皇陵の守戸(墓守り)の子孫といわれていた。また、「加志」「カシフ」「カシハ」「白橿村」など「白檮」と類似する地名がある。これら有力な根拠があったにもかかわらず、現在の場所に決定したのには、当時の政治的な事情によるものとみられます。当時の孝明天皇が、大和に行事する計画があり、「神武天皇陵」参拝が決定。幕府はそれにあわせて、天皇陵の場所を定め、修復事業を実施する必要がありました。しかし、洞村の地には当時、およそ千人の人々が住んでおり、神武天皇陵を整備するためには、人々を立ち退かせざる必要がありました。それは極めて無理な事情でした。一度定められた「神武天皇陵」はその後も整備され、明治以後は畝傍山全体が聖域とされるようになります。神武天皇は実在していたのか?始天下之天皇(※はじめて天下をお治めになった天皇)という異称は、後代の第十代天皇・崇神の異称と共通しています。こうした理由などにより、『記紀』においては初代天皇という位置づけでありながら、神話伝承と歴史的事実をつなぐ伝説上の人物と見なされている。このため多くの歴史学者は、この天皇は実在しなかったと断じています。こうした多岐にわたる膨大な物語が、すべて神武天皇の事跡であるとは考えにくい。むしろ、古代の王権交代をめぐって、複数の人物や氏族の間に抗争があり、そうした史実が神武東征のエピソードに反映されているという見方です。 神武天皇の即位年は紀元前660年2月11日とされており、2月11日は戦前の紀元節、戦後の建国記念日にあてられてきました。 史学の世界では大和朝廷の成立は紀元3~4世紀と考えられており、 磐余一帯に皇居が置かれたのはさらに後代の5~ 6世紀のことなので紀元前の即位は考えにくいでしょう。 そこで初代天皇神武という存在は、のちに大和地方の支配者となった大王像が投影されたものと考えられているが、神武実在説も少数ながら存在するようです。神武天皇を祀る神社日高見神社宮城県石巻市桃生町太田字拾貫壱番73開成山大神宮福島県郡山市開成3-1-38池袋御嶽神社東京都豊島区池袋3-51-2高部屋神社神奈川県伊勢原市下糟屋2202大藏神社新潟県胎内市下館1778県主神社岐阜県加茂郡川辺町上川辺1536八幡神社三重県いなべ市藤原町西野尻 56橿原神宮奈良県橿原市久米町934多家神社広島県安芸郡府中町宮の町3-1-13樫原神社徳島県阿波市土成町土成山ノ本41神武天皇社福岡県遠賀郡芦屋町正門町14宮崎神宮宮崎県宮崎市神宮2-4-1若尊神社鹿児島県霧島市国分敷根2575