智明権現(大山寺縁起 模本より)
出典:日本の神々辞典
神格 | 大山の神 |
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神徳・ご利益 |
国土開拓 |
別称 |
大山権現 |
あなたの「金運」を強力に引き上げる祈祷師の護符
大山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。
地蔵菩薩を本地仏とし、神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、伯耆国角磐山大山寺から勧請され全国の智明権現社で祀られました。
中国地方の最高峰、米子市の東に秀麗な山容でそびえる伯耆大山(1711m)は、『出雲国風土記』に「大神岳」と記され、古えよりその名のとおり神宿る山として仰がれてきた。
やがて修験者らが入山し、西日本有数の神仏習合の霊場として発展。頂きを間近に仰ぐ大山の中腹にはおびただしい数の寺坊が立ち並んだという。現在は大神山神社奥宮のほか大山寺本堂、阿弥陀堂などが往時の名残をとどめている。
印象的なのは、その近辺あちこちに点在している地蔵菩薩の石像だ。それらの尊像は、この地で育まれてきた信仰が、どのようなものであったかを教えてくれる。
伝説では、弥勒浄土の兜率天の一角から磐が落ちて三つに割れ、熊野、吉野とここ大山になったという。その開山は金蓮という僧で、もと出雲国玉造の猟師だった彼は、金色の狼に導かれて山に分け入り、地蔵菩薩の出現によって発心し、仏法を学んで寺院を建立したと伝わる。
神護景雲元年(767年)称徳天皇は勅旨によって、大山の地蔵菩薩に神仏習合に基づいた大智明大権現の宝号を与えた。
中世の大山は修験道が盛んであり、やがて大山では修験道から天台が主流となるが、天台宗寺院となった大山寺は平安時代末期から室町時代には160におよぶ社寺が建ち並んだといわれ、一時は大山僧兵三千人と称されるほどの勢力を誇った
地蔵菩薩は二仏中間の仏といい、釈迦入滅後、弥勒仏が出現するまでの無仏時代に六道(衆生が輪廻を繰り返す地獄、餓鬼、畜生、修羅、人天)の衆生を救済する仏とされる。大山の神はその垂迹、すなわちこの世に仮に現れた大智明権現であるとされ、知恵を授け、慈悲を育み、農を助け、牛馬を守護し、さらには雨水を授ける神として信仰を集め、その崇敬者は中国地方全域におよんだという。
元弘三年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が社で鎌倉幕府打倒の祈願を行ったことは、広く知られている。
明治6年(1873年)、神仏分離によって大山寺が廃され(明治36年に再興)、社僧が管理していた大智明権現社は大神山神社奥宮となり、神職がおもに管理していた米子市尾高の冬季祈願所(冬宮)が大神山神社本社となった。
特徴的な祭儀としては、7月14日、15日、神職が山上から水や薬草を持ち帰る「もひとりの神事」(奥宮古式祭)が有名である。
大山は死者の魂が還る地とする大山信仰と仏教の地蔵信仰が融合し、智明権現(地蔵菩薩)に死者供養を祈る大山詣は江戸時代に盛んでした。
現在でも、往時の信仰を偲ぶ大山寺三十三カ所地蔵めぐりコースがあります。
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