飯縄山(長野県)
長野市の北西にそびえる飯縄山(1,917m)は、隣接する戸隠山と並び古くから山岳修験の拠点として知られています。
飯縄神社里宮の由緒書きによれば、第十五代・応神天皇の御代(270年頃)、飯縄山山頂に天神大戸道尊を祀り、飯綱大明神(飯縄権現)と称したことに始まるとされ、嘉祥元年(848年)には、戸隠の開山でも知られる学問行者がこの山に籠もり、本地仏・大日如来の尊容を排したとも伝えられる。
飯綱の名を世に知らしめたのは「飯綱の法」でした。
天福元年(1233年)信濃国水内郡の城主・伊藤豊前守忠綱は、飯縄権現の信託を賜ったとして山頂に明神を祀り、大願を発して五穀を絶ち、千日のあいだ山に籠もって祈念を凝らしたとされる。そして、神通自在にして不老長生の法力を得て下山。人々は彼を飯綱の大天狗「千日豊前(太夫)」と称し恐れ崇めたといわれます。
その「飯綱の法」とは何だったのか?一般には竹筒にイズナ(イタチ科の哺乳類)または管狐という小さな魔獣を封じて持ち歩き、使役する呪法としてしられています。その実際は、手印に息を吹き込み、みずからの念を天狐や地狐として飛ばすというものだったとされる。
忠綱が会得した法は験力は著しいものがあったといい、その霊験を記した「飯綱祭文」には、「刀状の難を除く、戦場に利得あり、沙汰心論に勝つ、敵を滅ぼす、病患を除て延命なり・・」といった文言が並んでいる。要するに、行者に仇なす敵を微塵に打ち砕く法とされる。それゆえ、忠綱の血脈をつぐ千日太夫とその呪法は上杉謙信や武田信玄といった戦国武将たちを魅了してやまなかったとされる。ちなみに上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名です。
飯綱の語源は「飯砂」で、かつて山頂で食用となる砂(菌類・藻類)を参したことに由来するとされる。このため明治以後、飯綱神社の祭神は食の神皇足穂命(保食神)へと改められる。
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