岩手山(巌鷲山)
裾野を広げた標高2038mの岩手山は、活火山として幾度も噴火を繰り返してきました。
別名「巌鷲山」は、本来「いわわしやま」と呼ばれていましたが、「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛したものだとも言われます。静岡県側から見た富士山の形に似ており、その片側が削げているように見えることから「南部片富士」、古くは「霧山岳」「大勝寺山」とも呼ばれます。
裾野の登拝口に遥拝所として社祠が設けられています。古来から登山口として東方に柳沢口、南方に雫石口、北方に平館口の三方があり、それぞれに岩鷲山を山号とする新山堂があります。
山頂を「御殿」とし、ここに岩鷲大権現の奥宮が祀られています。
雄々しさと猛々しさを併せもつその山は、恐れられ崇められてきた神の山だったのでしょう。
山頂の南側に連なる屏風岩の形から古くは岩鷲山と呼ばれていたが、その岩稜は鬼ヶ城とも呼ばれ、鬼が住まう山とも言い伝えられてきました。
岩手山信仰の縁起は坂上田村麻呂に始まります。延暦二十年(801年)田村麻呂が蝦夷征伐の功成って当地に三神を勧請。国土の守護神となしたことが創始と伝えられます。
雫石口新山堂の伝承によると、坂上田村麻呂が鬼ヶ城にこもる鬼賊を鎮めた際、岩手山のマタギで巨躯の篠木五郎と篠崎八郎の二人が八尺(約2.4m)の鉈を振るいながら先立案内し、そのゆかりにより坂上田村麻呂は雫石口新山堂を創建したとされます。
坂上田村麻呂はこの霊山において祭事を行い、山頂に田村将軍の尊霊を祀って田村権現と称したともされます。
この地に伝わる民話によれば、坂上田村麻呂の子供の「ノギの王子」が、山麓に現れては作物を荒らし、子供をさらう荒鷲を追って山頂に向かいます。すると鷲は神の姿となって現れ、王子に「この山を開き守護神となれ」と託宣したという。
これらの伝承は、神仏習合の時代、岩手山の神が岩鷲大権現とも田村権現とも称されたことを説明するものとみられます。
源頼朝に従った御家人「工藤小次郎行光」が岩手郡を与えられ、岩鷲山に奉る阿弥陀・薬師・観音の三尊像を賜って大宮司に就任。以後、本地仏の三尊と、その垂迹神である岩鷲権現からなる神仏一体の岩手山信仰が整えられます。
三つの登山ルートの各口に新山堂が築かれ、山伏(やまぶし)が先導する参拝登山が隆盛。祭日の日、山麓の男たちは暗いうちから山に登り、日の出を礼拝したのち山頂奥宮に参拝し、守札や硫黄、薬草などを持ち帰って五穀豊穣と無病息災を祈願したとされます。
登山口のお堂は神社へと変わり、阿弥陀・薬師・観音の三尊は、穀物の神宇迦之御魂命と大名牟遅命(大国主命)、大和武尊の三神となり今日に至ります。
岩手山神社 | 岩手県滝沢市 |
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岩手山神社 | 岩手県盛岡市中央通3-6-11 |
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