神仏習合時代、各神は法体権現・俗体権現・女体権現と称され、合わせて「彦山三所権現」と総称された。『彦山流記』(1213年)における祭神・本地仏の記載は次の通り。
峰 | 習合神 | 祭神 | 本地仏 |
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北岳 | 法体権現 | 天忍穂耳尊 | 阿弥陀如来 |
南岳 | 俗体権現 | 伊弉諾尊 | 釈迦如来 |
中岳 | 女体権現 | 伊弉冉尊 | 千手観音 |
九州の福岡と大分に県境に鎮座し、かつて九州最大の修験道の拠点として隆盛したのが英彦山(最高峰・南岳1199m)です。
北岳、中岳・南岳の三峰からなり、中央にある中岳の山頂に英彦山神宮・上宮、山の全域に摂末社が点在しています。
江戸時代、天下に抜きん出た霊山として「英」の字を賜る以前は英彦山と称してましたが、それは天照大神の御子天忍穂耳命がこの山に天降ったとの伝承に由来する。
修験の聖地だけに、神秘的な縁起譚には事欠かない。
神仏習合時代の祭神・彦山権現は、もとは天竺(インド)の摩訶提国にいたが、東方の人々を救うために日本へと渡来。当地にて水晶石(宝珠)を御神体として祀り、さらにそれを四十九の窟に分けたという。
のちに、継体天皇の時代に北魏の僧・善正が彦山の石窟にて修行中、猟師の藤原(藤山)恒雄(こうゆう、のちの忍辱〈にんにく〉)と出会う。善正は恒雄に殺生を戒めますが、恒雄は聞く耳を持たず白鹿を射ます。すると空から鷹が三羽現れ、白鹿に檜の葉に浸した水を与えると白鹿は蘇生します。
その光景を見た恒雄は、鹿が神の化身であったと悟り、善正の弟子となって修行を重ねたという。そして仏の本体にまみえたいと祈ったところ、三岳の北岳に阿弥陀如来、中岳に観音菩薩、南岳に釈迦如来が顕現し、三岳の頂きに神祠を祀ったとされます。また別の伝承では祭神忍骨命の降臨した地とされ、山上に一祠が建てられたのが起源とも云われます。
いずれも伝承で実際の歴史は、11世紀初頭に増慶によって中興されるまでについては10世紀の「太宰管内志」等わずかに残るのみ。清和天皇代の貞観7年(865年)に従四位上を授けられた延喜式神名帳の忍骨命神社に比定する説もありますが、論社は他にあって確かではありません。しかし早くから神仏習合し「彦山権現霊仙寺」の名を用いていました。
その後、奈良時代には衰退していた彦山に宇佐の法師・法蓮があらわれ、般若窟で如意宝珠を得たといい、さらに飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを発見し、嵯峨天皇に上申し詔によって「日子山」を「彦山」に改めたというが、伝説であり古い記録もみな「彦山」と記される。後の江戸時代には「英彦山」と改められた。
こうした伝承は、彦山を中心とした北九州が、先進の文化をもたらした渡来氏族の拠点であった歴史を物語っている。ともあれ彦山は以後、「嶺に三千人の仙人あり」と呼ばれるほどの霊場へと発展。弥勒菩薩の浄土を模したという「四十九窟」などが当時を偲ばせている。
明治の神仏分離により修験道が廃止。九州彦山山伏の本山であった霊仙寺を廃し「英彦山神社」に改称されます。
英彦山神宮 | 福岡県田川郡添田町英彦山1 |
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