庚申を本尊とした庶民信仰があり、そのルーツは中国の道教系の三尸説にあります。人間の体内には三尸虫が潜んでいて、庚申の日の夜に当人が眠っている間に抜け出し、天帝のもとに昇りその人の罪科を告げ、早死させるという説です。
それによりその日は身を慎み、夜通し起きているという習わしが中国に生じた。そうすれば、三尸虫に告げ口されることもないことからこれを「守庚申」と称したそうです。
この守庚申の習俗が中世に日本にも伝来し、神道、仏教、修験道などと結びつき、ユニークな発展をします。中世末期に庚申信仰の経典とも言うべき『庚申縁起』が僧によって造られたこともあり、近世には全国的に広まり、庚申講が各地で結成されます。
これは同じ地域の有志が、庚申の日に一同に会して庚申の図像を掲げて供養したあと、飲食をともにして夜通し過ごすというもの。この行事を庚申待といい、庚申塔や庚申塚の建立も流行しました。
中国道教の教説である三尸説とその行事の守庚申が日本に伝来して、習合と複合して広まった。庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つ。陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。
干支であるので年(西暦年を60で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当します。
庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされていました。この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く平安時代に移入されます。
平安時代の貴族社会では、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す後に庚申御遊と称された宴をはるのが貴族の習いでした。最も古い記録では清和天皇の代に貞観5年(863年)11月1日の庚申に宮中で宴がもたれ、音楽が奏せられています。
庚申といってもどういう神さまなのかという疑問もあるでしょう。
日本では守庚申の習俗に、猿を神の使いとする山王信仰が結合します。庚申の申はサル(猿)であり、猿は災難を祓い去る(サル)に通ずる神獣とすることから、庚申の画像や庚申塔にそれが表現されるようになります。三猿は三尸になぞらえたもので、罪や過ちを封じ込めて、天帝に報告させない意味があるとされます。
近世には垂加神道の山崎闇斎が『大和小学』で猿田彦大神を祭神とする説を主張。一方では青面金剛を本尊とする仏説が主流となり、道祖神などとも習合します。庶民にとっての庚申さまは厄除、病気平癒、家内安全、家業繁栄、縁結びなどの身近な現世利益を得られる守護神とされました。
庚申信仰にともなう俗信も生じ、伝統的に庚申の夜に夫婦の交わりが禁じられていました。もし、当夜に妊娠すれば、生まれた子は盗人になると信じられていたそうです。
豊岡市但東町の庚申塔
庚申塔の各部の名称(出典:目黒区役所)
庚申塔は、庚申塚ともいい、庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。
庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多く、塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれます。
庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字はさまざまですが、申は干支で猿に例えられるから「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多いのが特徴。
仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られます。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもあります。
庚申塔は街道沿いに設置され、塔に道標を彫り付けられたものも多く、さらに塞神として建立されます。
庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられます。当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流となります。その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加。
現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたもの、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものが多くを占めます。
地方の田舎町には、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに「庚申」と彫られた石塔を見ることができる。
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