出典:倭建命(Art Mochida Daisuke)
武力に優れ、偉大な戦士として戦い抜き、人間的な愛や苦悩に彩られた生涯を歩んだ日本神話の英雄です。第十二代景行天皇の皇子で本名は小碓命。のちに倭建命(ヤマトタケル)と名付けられます。神話では古代の大和王権が地方のまつろわぬ勢力を平定していく王権の軍事的なシンボルとして描かれます。
古事記 |
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倭建命(やまとたけるのみこと) |
日本書紀 |
日本武尊(やまとたけるのみこと) |
別称 |
倭武命 |
武神 | 農業神 |
国土平穏 | 五穀豊穣 | 商売繁昌 |
出世 | 開運招福 | 除災 |
交通安全 | 試験合格 |
父神 | 景行天皇 |
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母神 | 播磨稲日大郎姫 |
妻神 |
弟橘媛(オトタチバナヒメ) |
あなたの「金運」を強力に引き上げる祈祷師の護符
出典:ヤマトタケルノミコト「墨絵画家カツ」
少年時代のヤマトタケル(小碓命)は父の景行天皇から兄を戒めるようにと命令されますが、解釈の違いから兄を捕まえ素手で掴み殺してしまいます。
その凶暴さから父に恐れられ疎まれて、九州の熊襲建兄弟(クマソタケル)の討伐を命じられます。まだ幼いヤマトタケルはまだ少年の髪形を結う年頃でした。
わずかな従者も与えられなかったヤマトタケルは、まず叔母の倭比売命に会いに行き女性の衣装を受け取ります。
九州に入ると、熊襲建の家は新築祝いの準備が行われいて、多くの兵士たちによってかたく守られていました。
そこでヤマトタケルは、たばねていた長い髪をたらし、叔母からもらった衣装を身にまとって少女になりすまし、宴の時を見はからって館へ忍び込みます。
出典:女装するヤマトタケル「月岡芳年」
電光石火のごとく兄建を斬り伏せ、続いて弟建に刃を突き立てます。
負けを認めた弟建は「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし。大倭国には我ら二人より強い男がいました」と言い、続けて「西方に敵なしのわれら兄弟をしのぐ強者が、大倭(おおやまと)の国にはいたようだ」と称賛し、自分の名を譲り倭建(ヤマトタケル)と名付けます。
弟健がしゃべり終わると真っ二つに斬り殺し熊襲を平定します。
その後、ヤマトタケルは多くの神を平定し出雲に入り、そこで出雲建と親交を結びますが、出雲建の大刀を偽物と交換して大刀あわせを申し込み殺します。
そこでヤマトタケルは「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 つづらさは巻き さ身無しにあはれ」と歌います。
(訳:出雲建の大刀には、つづらがたくさん巻いてあり派手だが、刃が無くては意味がない。可哀想に)
熊曽健兄弟は女装して油断させて伐ち、出雲健は偽の刀を渡して伐ったりと腕力と智力を備えた姿が描かれます。こうして各地の神や国を平定して、朝廷に参上し復命します。
西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、父の景行天皇に東方の蛮族の討伐を命じます。
ヤマトタケルは再び倭比売命を訪ねて「父は私に死ねと言っておられるのか!」と嘆きます。倭比売命はヤマトタケルを慰め、草那藝剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と伝えます。
遠征中、相模の国にて相武国造に荒ぶる神がいると騙されたヤマトタケルは、野中で火攻めに遭います。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、剣で草を刈り、迎え火を点けて炎を退けます。
出典:ヤマトタケル「歌川国芳」
生還したヤマトタケルは国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼きます。そこからこの地が焼遣(焼津)と呼ばれるようになったそうです。
ヤマトタケル尊の物語には、ヤマトヒメ命やミヤズヒメ命など美しい女性が登場して物語を彩ります。なかでも特にロマンチックな純愛と悲劇として知られるのがオトタチバナヒメ命の入水の話です。
東国遠征の途中、ヤマトタケル尊が走水(神奈川県横須賀市)から房総に渡ろうとする時、海が荒れ、激しい暴風雨にみまわれ船が難破しそうになりました。
そのとき妻のオトタチバナヒメ命が「夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と言って入水。最愛の妻を失うという犠牲を払い、無事に海を渡ることができました。
出典:弟橘姫
オトタチバナヒメ命は入水の際に、火攻めにあった時の夫ヤマトタケル尊を思い出し詩を読みます。
原文:佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
訳:相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ…
入水から七日後、オトタチバナヒメ命の櫛が対岸に流れ着き、この場所に御陵を造り櫛を収めたそうです。
その後、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、目的であった東国を平定します。四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し「吾妻はや」(わが妻よ…)と三度嘆きます。
科野(長野県)で坂の神を服従させた後、かねてより婚約していた美夜受比売倭建命に遭うために尾張へ向かいます。
二人はそのまま結婚。
ヤマトタケルは草那藝剣を美夜受比売に預け、「素手で倒してやる」と慢心し、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を征伐するため出兵します。
素手で伊吹山の神の征伐に向かったヤマトタケルの前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れます。
ヤマトタケルは「ただの神の使いだ。帰りに殺してやろう」と暴言をはいて無視しますが、猪は神そのものでした。神は大氷雨を降らし、ヤマトタケルたちは失神します。
かろうじて山を降りて正気を取り戻しますが、病の身となり大和への帰還を果たせず、国を偲びながら亡くなります。
倭は 国のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭しうるわし
命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白檮が葉を うずに挿せ その子
愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も
乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
大和は素晴らしい国だ。青く重なり合うように連なった山々に囲まれている大和はとても美しい。
まだ命あるものは平群山にある大きな樫の葉を(魔よけの)かんざしとして挿せ。皆よ。
ああ、なつかしい。我が家の方角から雲が立ちのぼっているではないか。
妻の寝床に置いてきた草薙剣よ。その太刀よ…
ヤマトタケルは亡くなった後、とても大きな白鳥となって飛び立ったとされます。
この悲劇の英雄の墓所と伝わる場所は各地に存在しており、その伝説も多く、描かれる性格にも一貫性がみられないことから、大和統一に尽力した各地の英雄がヤマトタケル尊に集約され語られたという説もあります。
しかし、父親から疎まれながらも数々の武功を上げ、多くの名を持ち、多くの妻と子を持つヤマトタケルは間違いなく英雄と呼べる神さまでしょう。
出典:倭健命「日本の神々辞典」
とりわけ武神としてのヤマトタケル尊を象徴するのが、東国遠征に際して叔母のヤマトヒメ命から授かった草那藝剣です。
これはスサノオ尊がヤマタノオロチの尾から取り出し、アマテラス大神に献上した天叢雲剣であり、のちに神武天皇に継承された三種の神器の1つ草薙剣です。
草薙剣をヤマトタケルが武器として使った記述はなく、描かれたのは草を薙ぎ払う事のみです。
草薙剣をミヤズヒメの元に残して出兵したヤマトタケルは、荒ぶる神の影響で病気となり亡くなります。このことからヤマトヒメ命は、草薙剣を武器としてではなく、霊的な守護の力を持った神器として渡したとも解釈できます。
ちなみに平家物語では、ヤマトタケルが草を薙いだところ剣は草を三十余町(3km四方)も薙ぎ伏せたとされてます。
この草薙剣は熱田神宮の御神体として祀られています。