新羅からの渡来人、来訪神ともされる。『古事記』では出ていった妻を探しに、『日本書紀』では日本に聖皇がいると聞き、帰属を願ってやって来たとされます。兵庫県但馬の地を治め、治水の功績や製鉄の技術をもたらしたことから国土開発・土木の神として信仰されます。田道間守(たじまもり)や神功皇后は子孫とされる。
古事記 |
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天之日矛(あめのひぼこ) |
日本書紀 |
天日槍(あめのひぼこ) |
古語拾遺 |
海檜槍 |
別称 |
日桙(ひぼこ) |
太陽神 | 農業神 | 製鉄の神 |
農業守護 | 国土開発 | 子宝安産 |
開運招福 | 厄除け | 技術向上 |
必勝祈願 | 陶磁器業守護 |
妻神 | アカルヒメ |
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子孫神 |
アメノヒボコ命は新羅国(しらぎ)の王子として生まれ、一人の美しい女性を追って日本にやって来たと伝わります。その事情を『古事記』の応神記は、次のように語っています。
新羅国にいたときこの神様は、沼のほとりで昼寝をしていた女性の陰部に日光がさして生まれたという、赤い玉から化身したアカルヒメ命を妻としていました。彼女は夫によくつくしていましたが、あるとき心おごった夫から激しく罵られたため、「自分の親のもとへ帰ります」といって小舟に乗って日本へ渡り、難波の比売許曽(ひめこそ)神社(大阪市東成区)に戻りました。妻のあとを追って日本に渡ってきたアメノヒボコ命は、難波に向かいましたが、海峡の神に行く手を塞がれていたので諦めて、仕方なく但馬たじま(兵庫県出石地方)に上陸して住み着き、やがてその地の女性と結婚したそうです。
こうしたアメノヒボコ命の物語は、古代の新羅と日本の交流を示すものです。『日本書紀』の垂仁天皇の三年春三月の条には、新羅系渡来民の集団との関わりをうかがわせる話が記されています。
それによると、日本に来たこの神様が、最初に住んだのは播磨国(現在の兵庫県宍粟郡)で、のちに宇治川をさかのぼって近江国の吾名邑あなむら(現在の滋賀県長浜市あたり)から若狭国(福井県)を経て但馬国(兵庫県)の出石にたどり着いて、そこに定住したと記されています。
その遍歴の足跡にあたる地域は、渡来系の人々の影が濃い土地でもあります。最後に住んだ但馬国(たじまのくに)では、国土開発の祖神として大いに霊力を発揮し、今日でも厚く信仰されています。
『播磨国風土記』では伊和大神(オオクニヌシ神)と国土争いをしたと書かれています。
記述からは、オオクニヌシ神のほうが先に播磨にいたように読めますが、後からやって来たアメノヒボコとの国を取り合う様子は、相当激しいものとして描かれています。
アメノヒボコとオオクニヌシ神は国占めのため競争して川の上流をめざします。
二神は争いながら最後は高峰山(黒土志尓嵩)に着きます。そして決着をつけるため、それぞれ黒葛(くろかずら)を三条投げます。これは一種の神占によるものとみられます。
オオクニヌシ神の一条は但馬の「気多の郡」、一条は夜夫の郡、残りの一条はこの村に落ちます。ところがアメノヒボコの黒葛は全て但馬に落ちます。
このことからアメノヒボコは但馬へ去り、但馬の伊都志の地を占めます。こうして二柱の争いは占いという平和的な解決で幕を閉じます。
ちなみに、この二柱が争ったことに由来する地名が今も多く残ります。
アメノヒボコが半島より渡来し宇頭川の川辺に着き、当地の治めていた葦原志挙乎命(アシハラノシコオノミコト※大国主)に宿所としての土地を求めると、アシハラノシコオは海中にのみ宿所を許します。
これを受けてアメノヒボコは剣で海をかき回すと島が出現し、その島を宿にします。
アシハラノシコオはその霊力に畏れ、アメノヒボコよりも早く国を抑えるべく北上。粒丘で休憩し食事を取りますが、その時に口からご飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されます。後に「揖保」の名がつきます。
アメノヒボコが「この村の高さは他の村に優っている」と言ったことから「高家(たかや)」と称されます。
アメノヒボコの兵士が8,000人いたことから「八千軍野(やちぐさの)」と称されたと伝わる。
播磨国風土記で伊和大神(いわのおおかみ)の記述がいくつもあり、「大汝命(おおなむちのみこと)」、あるいは「葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)」と記述されます。混乱を避けるため、ほかの名前が用いられている場合でも、「オオクニヌシ神」で統一して記載しています。
出典:瀬戸岩引きの図「出石神社」
但馬の国にたどり着いたアメノヒボコは、山すそに広がる沼地の奥に緑美しい村をみつけます。そこは出石という村でした。
出石村は人々はアメノヒボコ一行を温かく迎え入れ、田や畑を分け与え、一緒に楽しく暮らし始めました。
しかし、この辺り一帯は毎年のように大水の被害に苦しめられていました。雨があがっても、なかなか水が引かず、村人たちは大変苦労していました。
その様子をみたアメノヒボコは「瀬戸の大岩を切り開いて、沼地の水を海へ流せばよい」とひらめきます。
村人たちの協力のもと、瀬戸と津居山(ついやま)の間の岩山を切り開き、泥流を日本海に流して肥沃(ひよく)な但馬平野が出現し、人々は手をとりあって喜んだそうです。
また、アメノヒボコは土器を窯で焼く技術、製鉄の技術などを日本へもたらしたとされます。但馬の地に土器作りや製鉄に関係する場所が多いのは、アメノヒボコがもたらした技術、文化によるものと考えられます。
これら功績からアメノヒボコは国つくりの神様・土木の神様として、但馬の一の宮の出石神社の祭神として祭られています。
名前のヒは太陽、ホコは武器の矛のことです。古代の矛は太陽神の依り代としての機能をもっていました。そこからアメノヒボコ命は、太陽神祭祀の呪具である矛の神霊とされています。
日本に渡来するときアメノヒボコ命は、貴重な神宝を携えてきたといいます。
『日本書紀』垂仁天皇春三月の条には、羽太の玉(はぶとのたま)と足高の玉、赤石(赤く輝く玉)、刀、矛、鏡、熊の神籬(ひもろぎ)一式の七種と記されています。
これら神宝は太陽神を祀るための呪具です。鏡は太陽神を象徴し、神籬は神が降臨して宿るためのもので、とりわけ刀や矛は、太陽神の依り代としての機能をもちます。
神話のなかで日矛(ひぼこ)という言葉が最初に出てくるのは、天岩戸(あめのいわと)神話です。そのときは太陽神アマテラス大神を洞窟の中から誘い出す儀式において重要な役割を果たします。
こうしたことから、矛をはじめとする神宝一式は、太陽信仰をもつ渡来系民族の人々が日の神を祀るときの祭儀用の道具と考えられます。
その呪具と同じ神名をもつアメノヒボコ命は、本来、太陽神を祀る呪具の神格化で、実質的には太陽神としての神格を備えているといえます。
『古事記』によると、この神がもってきたのは八種の神宝だとしています。
その中身も『日本書紀』の記述とは異なっており、こちらは海の神に通じるための呪具という意味合いが強いのが特徴です。
「比礼」というのは、薄い肩掛け布のことで今でいうショールのことです。古代には、これを振ると呪力を発し災い除くと信じられていました。
この神宝セットのテーマになっているのは、風を鎮め、波を鎮め、湾や海岸の霊を慰撫するといったことで、いずれも海に関わるものです。そこから波風を支配し航海や漁業の安全をつかさどる神霊を祀る呪具としての機能がうかがえます。
おそらくこうした機能は、もともと海人族(漁民)の信仰していた海の神(あるいは風の神)の信仰と、アメノヒボコ命の信仰が結びついたものでしょう。
アメノヒボコ命を祭神とすることで知られる兵庫県の出石神社では、この八種の神宝を御神体「出石八前大神(やまえのおおかみ)」としています。
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